今日は「無茶しぃの会」
煎茶を楽しむ会だ。先週は、界隈を散策しながら、長命寺にいって桜モチを食べた。界隈には、言問団子、じまん草もち・・・名にしおうお菓子の店がそろっている。
煎茶の場合、抹茶にくらべて、茶碗も小さいし、とくに玉露にいたっては、のどちんこを過ぎたら、食道の壁で浸透しきるくらいの湯量なので、大きなお菓子だと具合が悪い。「山田屋まんじゅう」あたりがちょうどいい。
かといって、銀座のデパチカにいって調達するのも無粋なので、今日は向島あたりにあり、あまり知られていないお菓子やさんで、調達する予定。
道具を揃えたり、掛け軸を選んだり、花器に季節の花を投げ入れたり、お菓子をきめたり、そんな設えのひとつひとつが、おもしろい。
明日は「卒啄珈琲塾」の第一回目。
昔池袋の天真庵で、パソコン教室をやっていたことがある。
「卒啄塾」(そったくじゅく)といっていた。講師はぼく。
当時の社員たちは、全国にパソコンのコンサルをやっていて、一日指導にいくと、五万とか十万の稼ぎになった。ので、一番能力の低い社長が、ケーキと珈琲付きで2000円、でパソコンを教えていた。その場所がすぐに、「画廊天真」になり、寒山拾得の画を飾ったスペースになり、今の天真庵のきっかけになる。
卵からヒナがかえろうとするとき、殻の中から、こつこつとつつくことを「卒(そつ」」という、さてうまれようとする瞬間になって、親鳥が外から、コツとつつく、これを「啄」(たく)」という。この絶妙なタイミングがあって、初めてヒナが産声をあげる。
悟りの瞬間、を意味し、禅の世界では「卒啄同時」などといわれている。
何事も阿吽のタイミングがある、ということだ。
お店の珈琲は「はらみか」が作ってくれた銅鍋で珈琲を入れているのだけど、明日からの生徒は女性が多い(正確にいうと全員が女性)ので、倉庫に眠っていた銅のポットを少し改良して実験を二日やった。
どちらも銅だけど、道具が変わるだけで味がぜんぜん違うのがおもしろい。
トルキッシュコーヒーではないけど、飲んだ珈琲の底にたまった(トルコではカップに珈琲豆を入れ、そこに湯を注ぎ、上澄みを飲んだ)珈琲の粉の模様を見て、占いをしていた。お茶も珈琲もそばも、「ひと」が味にでるものだ。
その一味がいい。それぞれの人が、ひとてまかけて入れてくれるお茶の人間味と慈味を共に味わうことは、人生を豊かにしてくれる。
感謝・野村拝