ついにスカイツリーがオープンした。
2007年の4月に天真庵を池袋から押上に移した時は、「押上」の呼び方も、どこにあるかも知らない人が多かったけど、今では全国津々浦々の老若男女を問わず、有名になった。
毎日全国から、あまたの人たちが、来ているみたいだけど、ここ十間橋通りは、どこゆく風よろしく、昭和レトロのうらぶれた商店街のままだ。それが、いい。
そして、天真庵も、あいかわらず「奇人の会員制クラブ」よろしく、毎日いろいろな人がやってくる。
22日のオープニングの日の夜は「タケシーの三線ライブ」で新しい時代を感じながら酔いながら歌い、踊った。IT業界の古い友達と、最近知り合いになった新しい友達らが、踊らなそんそんで、新しい「今」を五感で感じあった夜。
タケシーは、小田原生まれだけど、8年前に三線の神様が憑依し、サラリーマンをやめて、音楽の世界に飛び込んだ。普通の人のものさしで見れば、「奇人」だけど、自然の神様のものさしで見れば、「普通」なんと思う。そしてこれからは、お金や名誉に関係なく、自分がやりたいこと、やらねばならないことを、やっていく人が、活躍する時代になると思う。
31日は、「ねっと31 ライブ」だった。ねっと21時代からの友人たちと、100年続くロハスな会をつくろう、という意気込みでつくられた。順受の会にきた縁で知り合ったKazuko Babaさんが華麗なジャズピアノを演奏してくれた。
2008年の4月1日。つまり天真庵が奇跡的?に1周年を迎えた日に、ワカ(吉若徹)さんが、ジャズピアニストの荒武さんを天真庵に誘い、ジャズライブをやった。
まだピアノがなかったので、電子ピアノが持ち込まれ、ワカのボスで、BCNの社長のキクジーからは、大きな花束が届き、その中で奏でられるジャズを聴いていたら、あたかもニューヨークか、ブクックリンのライブハウスにいるような気持ちになった。
ワカが「天真庵にピアノをおこう!」と叫んだ声が、近所の人の耳に届き、昭和35年生まれの「カイザー」のピアノがやってくることになった。その後、このピアノの吸引力によって、世界中からいろいろな音楽家がやってきて、毎月いろいろな「ライブ」をやっている。
春には、近くの名店spice cafeや、この町のコンシェルジュで、経事屋(ふすまや)の黒崎さん(先々週のアド街(曳舟)で、1位にでてきた、路地の案内人)の仕事場や、近くの町会倉庫、幼稚園を舞台にした「墨田ぶらり下町音楽祭」が生まれ、27日には4回目が無事盛況のうちに終わったばかりだ。秋には同じ舞台を梯子できる「JAZZ十間橋」も生まれた。
6月3日は、クラシックのピアニスト赤松林太郎くんが「押上・ピアソラ祭り」をやってくれた。彼は大分生まれで、大学は神戸大学なのだが、ピアニストとしてかなり頭角をあらわしてきた。毎月月末の「花の会」にも参加しておられる。宇部から、花一筋で齢80になられる原田先生が、日本の室町あたりから連綿と続く「古流」な生け花を指導しにきていただいていて、そこに、音楽家や芸術家や料理人・・不思議な縁ある人たちが、集まってきた。
「ひとつごと」を貫いてきたせ人が教えることは、花、だけでなく、人の生き方に通じる「道」の話がいっぱあって、学ぶこと多し、いや、だらけ。
不肖野村も「南九」という名前を頂戴し、お茶の入り口の指導らしき「無茶しぃ(634)の会」を始めたけど、まだまだ、入り口を模索している程度のものだ。
昨日は「落語の会」。千里家万馬くんも東京の某大手IT企業に在籍中に、順受の会にやってきた。小用を足しに二階にあがった時、ビットがたって「ここで落語をやらしてください」ということになり、昨日で6回か7回目になる。昨年11月、その安定して、つぶれそうにない大手企業に辞表をだし、本拠地を大阪にもどして、野にくだって、「笑の世界」でがんばっている。
若いのに、潔い生き方が、話のキレ、なんかによくでてきた。あとは、人生の困難辛苦を体ごと楽しみながら生きていくと、話に深みがでてくるのではなかろうか。楽しみな噺家だ。
昨日は島根の銘酒「死神」を飲んだ。古典落語にもある演目。来月20日はどうやら「死神」を聞きながら、死神が飲める、かも?
今日のブログに書いたけど、トイレには、「居」という南條先生の絵が飾ってある。池袋時代から、飾ってある。
「今、ここに、こうして、生きている」ことの意味を噛みしめながら、同じ時代、大変だけど、これからの時代を、いっしょに旅する「縁」に