近所の中華屋に「ツル」という名の亀がいた。
そこの主人の亡くなった女将が命名して生前かわいがっていた亀。
その末裔というか、草亀の子供ができた。生まれたばかりの亀は、甲羅も直径1cmくらいで、かわいらしい。
「もってかえりますか?」といわれたけど、我が家の小さな庭の小さな池は小鮒とメダカの楽園で、亀が入ると生態系が微妙にかわるので、ていねいにおことわりをした。
釣りの世界では「フナ釣りに始り フナ釣りで終わる」という名言があるように、華道では「葉蘭に始り 葉蘭に終わる」という箴言がある。
上等なすしやにいくと、分厚い檜のカウンターの上に、皿の代わりに大きな葉っぱにガリをちょこんとおいてでてくる。その大きな葉っぱが波瀾。土曜日は山口の宇部から齢(よわい)80になる原田先生がやってきて、花のお稽古をやった。押上にきた年に始めたので、もうまる5年
花を習っている。
竹の寸胴に、くばりをつくって、V字にする。これが土台で、土台がしっかりしていないと、その後がしっくりこない。人生も同じだ。
土台(基礎)が大切。葉蘭の中で、見栄えのいいもの、凛然としているものを「真」(しん)にする。天真庵の真でもあり、ものごとの「真髄」みたいなものだ。心(しん)にも通じる。
これがきまると、左手の中に、5枚から7枚の葉蘭をにぎりながら、イメージを抱きながら、つくっていく。真(しん)・副(そえ)・躰(たい)この3点が基本になって、空間の中にまんだらのような宇宙をつくる。
よの中は、陰陽によってなりたっているが、葉っぱも「陰方」「陰方」によって、右葉、左葉をきめる、という黄金則がある。理屈ではなく、「なーるほど」と天地自然の離にかなっていて、日本人が昔から生活や茶道華道の中に、宇宙の大原則が普通に使われてきた「すごさ」を感じる。
ここまできたら、もう波乱万丈の人生もこわくない。葉蘭5枚が、すーっと、寸胴の上に収まる。
その後は、真と副の二枚だけを残して躰に「菊」を生ける。
それが、床の間に飾ってあって、同時開催の「竹細工の展覧会」に彩を副えるというという形になった。真(メイン)が、竹細工で、副え(花)が脇役。真と副というのは、夫婦の関係と同じだ。副がでしゃばっていてもいけないし、真はぶれることなく、真ん中でちゃんと立っていないといけない。男は立たなくなったらおしまいなのだ。
10月31日の「ねっと31」は「流しそば」をやる。
大塚のネット21の事務所の大家さんは「梶原さん」だった。
その梶原さんのお世話で、大塚駅前でスナックをやっている上原英理さんというシャンソン歌手が、その日に「流し」風のシャンソンをやってくれることになった。とても素敵な女性で、大塚から天真庵まで歩いてやってくる人だ。
元気なやさしさを広げる人が活躍する時代。
感謝・野村拝