2013/12/20(913) 『 ♪ 京都三条の糸屋の娘(起)姉は・・・ 』

♪ 京都三条の糸屋の娘(起)姉は十八 娘は十五( 承) 諸国大名は弓矢で殺す(転)糸屋の娘は目で殺す(結)

これも頼山陽作。

起承転結を説明するのに、中学一年の国語の福田先生が教えてくれた。大学を京都にきめたのは、この詩の影響は大きい。

書の先生の貞本さんとは、大塚の「江戸一」で知り合った。まだ若いのに白鷹の燗を幸せそうに飲んでいる姿が印象的だ。

その後、馬があい、 ぼくがやっていた組合に入ってもらったり、ヨネクラボクシングジムにもいっしょに通ったりするようになった。

押上に天真庵を結ぶ時に、 「看板」の文字をこころよく書いてもらった。

そして自然発症的に「書をしよう会」 が始まり、おもしろい文人墨客たちが月に一度、書をかきにくる。なんとも自由闊達で融通無碍な雰囲気だ。

今年没後250年になる「売茶翁」(ばいさおう)を物心両面でささえたのが、江戸時代 の代表的な文人・亀田窮楽。大酒飲みだったらしい。

どうも彼と彼(貞本)と、同じ匂い がしていて、売茶翁の映画でもつくることになったら、彼以外演じられないのでは、なんて思ったりする。

一月号の「墨」という雑誌に見開きで、貞本さんの書が紹介されることになった。

煎茶を楽しんだ文人に「頼山陽」という人がいる。教科書には「日本外史」の著者として紹介されている。

その中に「川中島」があり、ぼくの生まれた北九州では、小学校の運動会の騎馬戦のことを「川中島」という。

頼山陽は引っ越しが好きだったらしいが、最後は「山紫水明処」と名付けた家を加茂川の近くに立てた。

ちょうどぼくが通った大学の近くにあり、一度いったことがある。そのころは煎茶や文人趣味にはさほど関心がなかったのに、不思議な縁みたいなものを感じた。その時のイメージが残っていて、天真庵の二階の雰囲気 はそんな感じがする。

火曜日は少し寒かったので、「剣菱」を熱燗にして飲んだ。

実は、「剣菱」と頼山陽は深い因縁がある。「酒を愛すること妻の如く、酒を惜しむこと銭の如し」 と謳った頼山陽は、茶とお茶けとは切りはなせない人だった。

剣菱酒造の当主・原佐一郎は、「老柳」と号し、文人たちとの交流を楽しみ、清貧な彼らを援助していたらしい。

そんな流れがあるのか、ぼくらが学生のころの頑固なおでんやや居酒屋の主人たちは、「剣菱しかおかへん」というのがあまたいたような気がする。

ぼくは、おでんには「名誉冠」のぬる燗だときめていた口だけど・・・

昨日は今年最後の「ピアノの調律」。調律師のIさんも無類の酒好き、料理好き、器好き。そして茶人でもある。

「なぜお茶をやっているの?」という質問をした。答えがおもしろかった。

「西洋の文化のピアノをなりわいにするときに、日本人のモノサシをしっかりもとうと思った」とのこと。

彼は、大みそかの墨田トリフォニーホールのコンサートの調律師として、毎年新年を迎える。

たぶん、日本で3本の指に入るくらいの名人だと思う。「日本人のモノサシ」という「哲」の奥深さが、調律された澄んだピアノの音のように脳裏にピーンと響いた。

調律が終わるころ、ことこと煮ていた小豆もいい具合になった。

蕎麦豆腐にそれをかけて、玉露を飲みながら、「夢」を語りあった。

お茶は人と人の「夢」を結ぶ素敵な文化である。

    感謝・野村拝