♪夏も近づく 八十八夜 トントン・・・
先日、元・浅草芸者の「たまちゃん」が、閉店間近に口三味線よろしく「トントン」と小唄で鍛えた甲高い声を出しながら、蕎麦を手繰りにこられた。
85歳になるけど、着物の着こなしも粋で、立ち居振る舞いも、小俣の切れあがった風で素敵な女性。今日あたり、近くの古民家に引っ越してくる。
昔から引っ越しには、蕎麦がつきもんだけど、引っ越し祝いに彼女の「三味線とトークショー」をやろうと思っている。
昨日は二階で「かっぽれ」のお稽古だったけど、彼女のシャミで「奴さん」を踊るという目標もできた。寄る年波にも負けず、少し先輩のあいかたと、昨日はたっぷり汗をかいた。
来週は、岐阜で700年以上の歴史を持つ「春日茶」の「茶摘み&蕎麦会」に参加することになった。揖斐川の近くの急斜面で作られてきた「在来種」は、最近の人間の都合でつくられた「やぶきた」とは、似て非なるくらい野趣があり、しっかりとした甘みと雑味と人間味が含まれていて、筆舌が及ばない。
高齢化と過疎でこの地も、後継者不足で悩んでいる。「なんとかしよう」と、ぼくの蕎麦の弟子の「だいきくん」が立ちあがり、仲間たちを募って、お茶畑を守る運動を始めた。「自分のことはさておき、人の役にたてることをする」という若者が、増えているのも現実で、そんな動きを垣間見るにつけ、まだまだ日本も大丈夫だと痛感する。
本日のレポートには、静岡茶のことが紹介されているけど、もともとは、臨済宗の開祖・栄西禅師が中国から持ってこられたお茶を、佐賀県の背振山に植えたところから始まったと言われている。
師は、博多に聖福寺を建立し、臨済の禅と、喫茶去というお茶と禅を広める拠点とした。
「寺の敷地内に茶樹を植えたんばい」というのは博多の茶人の自慢話でもある。
(茶のふるさとのわりに茶人が少ないのは残念で、いつもなんとかせなあかんばい、と思っている。ほんなこつハガイイ)
その後、京都祇園に建仁寺を建立し、明恵上人に茶壺に入れた茶種をおくったところから、宇治茶が始まっていくというのは、日本のお茶の歴史の中で、忘れがたきエピソードである。
祇園では「お茶屋遊び」というし、提灯に串団子の文様が記されているのも、そんなことに由来する。
江戸時代になると、黄檗山の禅僧であった佐賀の「売茶翁」(ばいさおう)が58歳の時に、野に下り、上洛して、下賀茂神社の糺の森(ただすのもり)や、相国寺や東山界隈で、茶道具を背中にしょってお茶を急須でいっぱいづつ売ることをし始めるのが、今の煎茶の原点になっていて、そこに池大雅、若冲や陶芸家の青木木米、太田垣蓮月、書家の亀田窮楽、などが集まってきて、京都から煎茶が静かに広がっていった。
煎茶が文人たちにひろがり、体制や権力の対岸にあり、「批判茶」といわれているのは、買茶翁が生涯かけて伝えたかったことは、お茶を飲んだり、文人墨客たちとのふれあいの日常こそ「禅」である、ということだと思う。
「はがくれ」とは佐賀県の専売特許だが、お茶の葉の里であり、そこから売茶翁がでてくるのも、らしく、ていい。
世の中は、何かと混沌としており、この星そのものがもう残り少ないのでないか、と思えるような末期的なことばかりが目につくけど、息をしながら生きている毎日毎日、こうやって煩悶しながらもなんとかなっている瞬間瞬間こそ人生だと思うので、少なくても生きている間、一日に一回くらい、「生かされている奇跡」に感謝しながら、一服の茶を楽しむようにしたいとつくづく思う今日このごろ。
江戸の文化文政時代に博多の聖福寺に「仙崖和尚」(せんがい)という奇僧がいて、絵や書が今でも人気がある。彼の代表的な作品に、「気にいらぬ風もあろうに柳かな」という、柳の木が風になびいている禅画がある。落款押す場所に「堪忍」と揮毫してある。
今もそんな時代の風が吹いている気がする。
感謝・野村拝