昭和が遠くなりつつある。
1945年(昭和20年)の今日、原爆が広島に落ちた。
平和という言葉がいらないくらい平和な日々がくると誰もが願っていたけど、なかなか人間の業というものは、ブラックホールくらいに深いものらしい。
天真庵のある十間橋通りに一軒だけあったパチンコ屋が60年の歴史に緞帳を下げ、今月末に「イオン」系のスーパーができることになった。創業者のおじいちゃんが愛用していたトタンジスタのラジオをもらった。時代が感じられるいいものだ。
天真庵には似合いすぎるので、最近近くに越してきた「NUSUMIGUI」というブランドを運営している若いデザイナーに譲ることにした。
「たぶんこれで玉音放送を聞いたんだと思う」といったら「?」な顔をしていた。
「ゴメン、君のおとうさんなら知ってるハズ」というと、「48歳」だという。ぼくの玉音が玉砕された!
天真庵の建物は、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼けた後に建てられた。今年で69年目になる。
この建物の改装を手伝ってくれた林くんと茎ちゃんが、土間を掘り返していると焼けただれた生活用品がいっぱいでてきて、そのひとかけらを「神だな」を作ってお祭りした。そこに座った神さまが、その後いろいろ「首尾をする」ようになった。
まず、林くんと茎ちゃんが結婚した。
その後に、玄関とイスを作ってくれた般若くんが、近くに住むビオラのヨッシーと結婚したり、英語の岩本先生もこのお店で出会った子と結婚して5年の記念日を先週迎えたり・・・・
別名「首尾の庵」と言われている(昔、駒形橋のそばに、古い大きいな松があって、それが「首尾の松」といわれていた。
かっぽれをやると、その辺の男と女の話がわかってくる)
その林くんたちが、和歌山県の串本に移り住んで、またおもしろいプロジェクトを始めた
。
昨日彼らから手紙が届いて、その街にかつてあった「田並劇場」http://www.nzz.ch/feuilleton/aus-erde-geformt–durch-das-feuer-vollendet-1.18327395を復活させる運動を始めたことが書いてあった。
小さな成功体験がつたない人生経験で「よしあし」に言及するのは簡単だけど、いつまでも自分の夢とかおもいを大切にする生き方をする彼らに、学ぶもの多しだ。
天真庵のオープニングで「たこ焼」を焼いてくれた陶芸家の渡辺愛子さんも、銀座の黒田陶苑で個展をやるくらいの陶芸家になった。
このたびスイスの新聞に「日本のやきものを中世から継承する陶芸家」として紹介されたhttp://www.nzz.ch/feuilleton/aus-erde-geformt–durch-das-feuer-vollendet-1.18327395。
今日は「かっぽれ」の日。男3人で6年くらいやっている。
5月に世界にひとりしかいない「女幇間」のたまちゃんこと、悠玄亭玉さん(85歳)が、この街に住むようになった。
赤く染めた頭で、白いプードルの愛犬「コバナ」と毎日十間橋通りを散歩しながら蕎麦を手繰りにやってくる。
彼女の生き方に感化されて、女子たちのかっぽれが5人になった。
三味線を習う女子もいる。玉ちゃんに弟子入りをお願いすると、さすがキップのいい江戸っ子芸者。
ひとつ返事の「胸ポン」だ。ささくれだった人間関係でごちゃごちゃしているような昨今。
手漕ぎ舟で大川(隅田川)にいき、けつをまくって、じゃずじゃぶと洗っても何もでてこない、くらいすっきりした心で生きている。
そうありたいものだ、とつくづく思う。
昭和が遠くなろうが、いいもの、ほんものには古いも新しいもない。
どうせ一度しかない人生、「ほんもの」にふれあいたいと思う。
感謝・野村拝