「ちんこ徳利」
昨年の2月の電話で、89歳になる父が「酒がのめんごとなった」というので、心配して実家の宗像にかえった。
魚がうまいこの地で暮らしながら酒(焼酎いっぺんとう)が飲めなくなるのは、さみしいなと思っていたら、今年の正月2日の90歳の誕生日に「焼酎はのめんことなったばってん、日本酒を燗にして飲むごとなった」と笑いながらいうので、誕生日祝いに、久保さんの備前の片口の徳利、通称「ちんことっくり」をあげたら、毎日愛用しているらしい。
一合いれて、電子レンジで一分すると、チンと鳴ってちんことっくりの中に人肌の燗ができあがり、それを股、もといまた久保さんの斑唐津のちょこに入れて飲む。
「備前のちんこ徳利に斑唐津」というのが、左利きのあこがれの酒器。
余談だけど、酒飲みのことをなぜ「左利き」とか「左党」とかいうのは、大工が金鎚を右手、左手に蚤(のみ)を持つ、という洒落からきた言葉。そして左利きが「徳」をきかせて持つ酒器を「徳利」と名付けた。先人のお洒落で徳をきかせた命名だ。
器のことをよく「用の美」というような表現をする。徳利は、やはり「きれ」がよくなくてはいけない。
片口の先がちょっと上むいて、そこからきれのいい酒がおしっこのようにでていく。
自分のものが「あがって」しまって、小用しか用をなさなくなっても、分身が毎日元気にいてくれる。
こんな無用の用みたいな「用の美」が酒器にはある。考えることもなく、お箸は不浄なる手の分身であり、ふくよかな急須のふくらみは、女性の乳房の分身でもある。
蕎麦を手繰る、酒を飲む、お茶を日常茶飯にする、と、ささやかながら、さらさらと悠久の川のながれにゆだねるように、自然やそれとふれあってきた日本人の「こころのふるさと」を旅するような気持ちになる。
昨日のダメ中は、映画好きの美人の友達が雨の中、長野の酒蔵から調達してきた一升瓶をかかえてやってきた。
それを久保さんの「ちんことっくり」に入れ、みなでワイワイいいながら飲んだ。小津安二郎翁が好きだった酒らしい。
平成の「東京物語」みたいな天真庵の寺子屋物語。「未完」だけど、お燗は格別だった。
今日は「インヨガ」。夕方は先東洋太平洋チャンピオンに挑戦し、あと一歩及ばず10カウントを聞いた。
ボクサーくんの残念蕎麦会。