第009話 『 珈琲と蕎麦 』

お蕎麦と珈琲というのは「こだわり」ということにおいて、共通点が多い。昔から珈琲専門店あたりのマスターというのは、少し頑固で偏屈な人が多く、蕎麦屋の親父さんも、共通のにおいがするタイプが多いような気がする。

この地球という星で一番初めに珈琲を体験したのは、アフリカの猿ではないか、という話がある。ケニアとかエチオピアあたりの自然の珈琲の木が、山火事で焼け、その火事で自然にできた「焙煎豆」を猿が飲んで、興奮していた姿を、人間が見て、それを臼で挽いてお湯を加えて、飲むようになった、という話。

蕎麦も大陸から日本に伝わる時に、対馬を経過した。今でもその当時の「源蕎麦」を栽培している農家があり、年末に友達が送ってくれた。少しアクに近いくらいのコクがあったけど、とても「元気がでる蕎麦」だった。九州に上陸したけど、そこは食が豊かな土地だったので、根付かずに、信州や東北の食文化として発展していったらしい。ぼくたちが育ったころの北九州には、「蕎麦屋」などなく、デパートの大食堂か、うどんやで、ざるそばを食べた。大食漢の九州人には、あの「ちょろっと笊の上にのった蕎麦」は。どこかしら物足りない食べではなく物だったように思う。

蕎麦と珈琲で、かなり大切なものは、「水」「鮮度」「挽きかた」だと思う。もちろん「素材ありき」だけど。挽きかたには、とても重要なファクターだ。蕎麦屋には「石臼挽き」みたいなことを掲げてあるけど、大半は石臼を電動で挽いているもの。すしのロボットが人間の握ったすしにかなわないように、電動で挽いたものと、人間が挽いたそれとは別物。珈琲も、電動と手動とでは、別物。

ぼくは、珈琲と蕎麦に関しては、いろいろやってきたけど、あまり「うんちく」を語るのは好きではない。たぶん、カウンターの中で、うんちくめいた話をするタイプでもないし、「うんちく好きなお客の話」には辟易するタイプの人間だと思う。

二階に並べてある器にしても同じことがいえる。陶芸家やギャラリーが嫌がるお客さんというのは、「うんちくが多く、自分が陶芸をやっていて、そのヒントになるような質問ばかりして、何も買わない人」だ。そんなお客にはなりたくないし、そんなお客にはきてほしくない。