「長崎ナンバー」の不思議な車がやってきて、中から日焼けした若者がおりてきた。
なつき君だ。
この春に、南島原に移りすみ、「くちのつ巷珈琲焙煎所」を準備中。近所の漁師に誘われて、船にのり、ビギナーズラックで、ヒラマサを釣りあげた写真を見せてもらった。
なかなかのもんだ。うらやましい田舎生活。
彼は、天真庵を改装するメンバーのひとりで、その縁で、キラキラ橘商店街の「ぶんかん」の店長になりこの街を盛り上げてくれた。
開店前に、焙煎道具をかかえ、勝手におしかけて、焙煎の極意を伝授した。いい迷惑だったと思うけど、名にしおうカラスマ焙煎師になった。
蕎麦打ちも二年続けて、大みそかと、旧正月のおおみそかに伝授した。
都合5度ほどやったので、なんとか自分で楽しむくらいのレベルにはなった。こんどは蕎麦道具を持ち込んで大特訓しようか、と密かに思っている。
珈琲の石臼にも興味をしめしたけど、天真庵の石臼をつくってくれた名人さんは、311の震災で体調をくずし、その後復帰しなかったため、かなわなかった。
天草に名人がいる、というウワサをきいたので、それを伝えると、さっそく何度か通ってゲットしたらしく、今回はそれの披露をかねて関東の何か所かで「珈琲会」を催したらしい。
天草は昔から陶器の釉薬に使う長石など、「石」の産地として名高い土地である。立派な墓石になりそうな黒光りする石臼だった。
11月6日に、島原のお寺で「蕎麦会」をする。そこで今話題のイタリアンのシェフとコラボの形になったが、なつきくんも石臼をもって参加することにあいなった。
昨日は「珈琲ドリポット」も購入してくれ、ぼくより10日ほどはやく、関門海峡を珈琲ドリポットが渡ることになった。
珈琲を日本ではじめて飲んだのは、鎖国時代の唯一の港、長崎の出島の遊女ということになっている。
煎茶と禅を日本に伝えた隠元和尚が、最初にきたのも長崎で、興福寺にしばらく滞在し、お茶とか、禅をひろめた形跡がある。
普茶料理が「しっぽく料理」として定着したのも、その縁である。
蕎麦も大陸から長崎の対馬を経由して日本に伝わった。そういう意味では、長崎は玄関であり原点である。
南画家の釧雲泉や、木下逸雲なども、長崎出身であり、煎茶に造詣が深かった文人である。
そんな土地に縁あって移住した人と、いっしょに「蕎麦会」ができるなんて夢のようである。
今朝は、もっていく釣り竿と、のし棒を磨いた。 感謝・野村拝