3月10日は母親の誕生日。
同じ申年で85歳になった。
3月11日、12日に「島原の蕎麦会」があったので、ひさしぶりに誕生日をいっしょにお祝いできた。
二日で100人近い蕎麦会を終え、手伝ってくれたかすみちゃんを空港におくり、その足で佐世保にいった。
街のいたるところに「親和銀行」がある。
駅前の商店街に親和銀行本店がある。
この街にこんな建物があるんだ、という古色蒼然とした石造りの建築物があり、若い建築家にとっては、まさにあこがれの「神話」の世界みたいで、わざわざ全国から見に行かれる方も多い。
世界的な建築家・白井晟一さんの代表的な作品である。
ぼくが修行した広島達磨を設計したのが、嫡男の白井昱磨さん。その縁で、ぼくも蕎麦の世界を逍遥するハメになった。
そして島原に二度も蕎麦打ちにいく、というのは、まことに不思議な天恩である。
カステラ、砂糖と繋がる「砂糖街道」と、珈琲を始めて飲んだのが出島にいききしていた遊女であることは昨日のブログに書いた。
煎茶も長崎とはきっても切れない関係である。隠元和尚さんは、長崎唐寺の興福寺の招きで渡来した中国のおぼうさん。宇治の黄檗山を開くまでは長崎にいた。
そして黄檗の禅と普茶料理(卓袱)、煎茶を伝えた。売茶翁、田能村竹田たちもその影響を受け、竹田の親友である頼山陽や釧雲泉、木下逸雲、村尾萬載、水野媚川などの長崎ゆかりの文人たちが「煎茶」の世界にのめりこんでいった歴史ある。
今回、空港にいく途中、風光明媚な千々石(ちじわ)海岸の近くに「頼山陽が泊まった宿」という看板を見つけた。
南島原に「青一髪」という焼酎がある。頼山陽がこの地を旅して読んだ「泊天草洋」の中から命名された。耶馬渓も頼が命名した。
北九州では騎馬戦のことを「川中島」という。♪べんせいしゅくしゅく・・・・と吟じられてきた詩も頼山陽作。
白井晟一さんが生前に使っていた煎茶椀が手元にある。確か青木木米だったと思う。
次に長崎にいくのは6月か11月になると思うが、田能村竹田か頼山陽の掛け軸をかけて、青木木米の茶碗で煎茶会をやりたいと思う。
感謝・野村拝