まあるいを喰って茶む、またうれしからずや。
昨日はお店の前の桜の木が切られた。10年くらい前に誰かが勝手に苗木を植えた。
それがみごとな桜の木になり、毎年春に多くの人を楽しませてくれた。たぶん大島桜だと思う。
ソメイヨシノより色が淡く、「咲いてる」という気負いがなく、ただ咲いているのがよかった。
区の業者さんがきて、根から掘り起こし、そこにアスファルトを入れると、何もなかったようになった。
最近界隈は激変している。東京オリンピックとか近くに大学ができる、とか、上げ潮ムードなんだけど、長屋や古民家など一度壊されると、「ここになにがあったかもわからない」ことが多い。
日本の伝統的な文化や暮らしも、そうやって「美しい残像」さへ露と消えていきそうな流れだ。
そんなことを騒音の中で思っていたら、目の前に丸く光った物体が通り過ぎた。先日書いた「エロスの丸い球体?」なんて思ったけど、ほんの数秒だった。不思議なメッセージのような声を残して・・
午後に京都から河野夫婦が上京。今年の作品を二階に飾った。
今年は「青葉染め」の作品が並ぶ。桜やバラなどの葉を「押し花」よろしく「押し葉」にしてそこに染料をのせ生地の上にのせ、100度のスチームで色づけする、という工程だ。
そこまでに至る道に試行錯誤を重ね、完成した作品は、花を咲かせる精が宿る葉の刹那の命を永劫にした輝きがある。「時分の花」を生涯持つ一枝にする(不失花)、そんな次元の染。
そんな話を夫妻と京都の地酒を飲みながら談論を風発。
ねがわくば花の下にて春死なむ
という西行法師の歌がある。
それはたぶんソメイヨシノではなく、山桜や大島桜のように、あわくて儚い色の花だから
「静かな死」を託していけたのではなかろうか。
せくなあせるな世間のことはしばし美人の膝枕
今の時代の呼吸で生き暮らしていくと どうも息がつまることが多い。
桜を一番美しく愛でるコツは 美人の膝枕 というのが定説だ。
まあるい玉のあいかたの膝枕で花見をしたいものだ。
禅林が一気呵成に「円」を揮毫するまあるいものを「円相」という。書くときは時計回りなんだけど、まあるくなると、どの一点をとっても、右も左もなく、始まりも終わりもない。
「ただいま」(Here Now)だけであり、「終わりは始まり」である。そんな禅問答の題材としても「まわるい)は使われてきた。
仙厓和尚はそれに、「これ食って茶飲め」と賛を添えた。
まあるいのを饅頭にみたてた。昨日はまあるいたまねぎを見て、そんなことを思い出した。
世の中に絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし(在原業平)
というのもある。この界隈に「業平」という地名は残っているが、「業平」という駅は「スカイツリー駅」になった。のどけからましではなく、かしましい気がする。
どこを見ても そんなかしましく ささくれだったような世の中がちょっと心配だ。
感謝・野村拝