2018/05/19 (1013) 『まあるいを喰って・・・ 』

まあるいを喰って茶む、またうれしからずや。

昨日はお店の前の桜の木が切られた。10年くらい前に誰かが勝手に苗木を植えた。

それがみごとな桜の木になり、毎年春に多くの人を楽しませてくれた。たぶん大島桜だと思う。

ソメイヨシノより色が淡く、「咲いてる」という気負いがなく、ただ咲いているのがよかった。

区の業者さんがきて、根から掘り起こし、そこにアスファルトを入れると、何もなかったようになった。

最近界隈は激変している。東京オリンピックとか近くに大学ができる、とか、上げ潮ムードなんだけど、長屋や古民家など一度壊されると、「ここになにがあったかもわからない」ことが多い。

日本の伝統的な文化や暮らしも、そうやって「美しい残像」さへ露と消えていきそうな流れだ。

そんなことを騒音の中で思っていたら、目の前に丸く光った物体が通り過ぎた。先日書いた「エロスの丸い球体?」なんて思ったけど、ほんの数秒だった。不思議なメッセージのような声を残して・・

午後に京都から河野夫婦が上京。今年の作品を二階に飾った。

今年は「青葉染め」の作品が並ぶ。桜やバラなどの葉を「押し花」よろしく「押し葉」にしてそこに染料をのせ生地の上にのせ、100度のスチームで色づけする、という工程だ。

そこまでに至る道に試行錯誤を重ね、完成した作品は、花を咲かせる精が宿る葉の刹那の命を永劫にした輝きがある。「時分の花」を生涯持つ一枝にする(不失花)、そんな次元の染。

そんな話を夫妻と京都の地酒を飲みながら談論を風発。

ねがわくば花の下にて春死なむ

という西行法師の歌がある。

それはたぶんソメイヨシノではなく、山桜や大島桜のように、あわくて儚い色の花だから

「静かな死」を託していけたのではなかろうか。

せくなあせるな世間のことはしばし美人の膝枕

今の時代の呼吸で生き暮らしていくと どうも息がつまることが多い。

桜を一番美しく愛でるコツは 美人の膝枕 というのが定説だ。

まあるい玉のあいかたの膝枕で花見をしたいものだ。

禅林が一気呵成に「円」を揮毫するまあるいものを「円相」という。書くときは時計回りなんだけど、まあるくなると、どの一点をとっても、右も左もなく、始まりも終わりもない。

「ただいま」(Here Now)だけであり、「終わりは始まり」である。そんな禅問答の題材としても「まわるい)は使われてきた。

仙厓和尚はそれに、「これ食って茶飲め」と賛を添えた。

まあるいのを饅頭にみたてた。昨日はまあるいたまねぎを見て、そんなことを思い出した。

世の中に絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし(在原業平)

というのもある。この界隈に「業平」という地名は残っているが、「業平」という駅は「スカイツリー駅」になった。のどけからましではなく、かしましい気がする。

どこを見ても そんなかしましく ささくれだったような世の中がちょっと心配だ。

感謝・野村拝