2018/09/04 (1018) 『来週は延岡にいくこと・・・ 』

来週は延岡にいくことになった。

城山の近くの菩提寺に納骨。

 

幼きころ、夏休みになると日豊線の「フェニックス」とかいう電車(みんな汽車といっていた)にのって、両親のおじいちゃんおばあちゃんのいる延岡にいった。

小倉までは鹿児島本線、そこから日豊本線になる時、進行方向が変わる。

生来の方向音痴のせいもあり、なぜ途中で前後がかわるのかがわからなかった。

途中大分あたりになると、窓に木々が迫ってきて、まるでターザンの世界を走っている感が子供なりの旅愁だった。

大分の佐伯につくと「つぎはのべおか」というアナウンスがある。

心臓がどきどき時めいてくるのだが、その一駅が、たぶん一時間くらいかかって、待ち疲れて、着いた時は夢の中、というのがならわしになっていたように記憶する。

 

タクシーで「北小路」までいく。父と母の実家は歩いて5分。

父の父は、延岡では名にしおう植木職人だった。今でも彼がつくった庭があちこちに残っている。

「バカでも金持ちが一等賞」というのが口ぐせだったけど、ただ金持ちというだけの家の庭はつくらなかった。

その家にいき、床の間(とくにそこにかけてある掛け軸を見てきめていたそうだ。でもほんとうは、その人を見て決めていたふしもある)。

 

おふくろの実家は魚屋。宇和島で魚の加工工場を営んでいたじいちゃんが、事業にいきずまり、妻と5人の子供を連れて、四国から九州に渡った。

「へんこつ」「気骨」というのでは、植木屋と魚屋、甲乙つけがたい。

そして植木職人のじいさんが一仕事終えて、職人たちと打ち上げなんかをやる時に御用達にしていて、おふくろが魚を届けていた。

それ目利き?だったじいさんが「よし」と気にいり、お見合いさせて昭和30年に結婚し、次の年の昨日、不詳野村南九がこの世に登場する、というお話。

 

簡単な初七日を家でやった。掛け軸は、足利紫山老子の「古松談般若」。

102歳まで生きた老師の「古い松(自然に生きてきたもの)は、お経みたいなもんや、という禅語」軸を米寿の時におくったものだ。

床の間には、久保さんの鳴海織部の花器に、近所の友人の寺の境内にあった薄(すすき)をちょうだいして手向けた。

父の好物だった「よこわ」(本まぐろの幼魚)を近所の魚屋から調達し、自前の包丁でさばき、同じく久保さんの織部の向こう付に飾り梅醤油(青梅をかえしにつける)をつけ、剣菱で献杯。

植木職人と魚屋の先祖の「血」が、間違いなく自分の中に流れているような気がする。

 

延岡への里帰りが、ぼくの旅の原点のような気がする。延岡弁に「よだきい」というのがある。

直訳すると「きつい。しんどい。」という意味。でもほんとうは「無為自然」感がただよう。

こちらも直訳すると、「なにもしない」ニュアンスがあるが、無為自然というのは、運任、つまり自然のなるゆきにまかせる、みたいなことか。「ただ生きる」。

それ以上の「てにおは」や、名利など不必要である。

 

旅は哲。

「鉄の街」と呼ばれた北九州からの旅はまだ途中である。

 

感謝・野村拝