2019/11/19 (1033) 「「11月11日11時11分・・・」

「11月11日11時11分から、私もなんか変です(笑)というメールをもらった。「いまここ」がこれまでと違うらしい。

いつものように、朝近くの藤懸神社まで散歩する。

神社の近くの欅(けやき)の梢(こずえ)にジョウビタキが鳴いていた。冬鳥だ。

雀のような小さな体だけど、大陸から海を渡ってやってくる。600kmの道程だ。

「今年もかえってきたよ」と尾っぽを上下に揺らしながら。

冬近い能登に「鳥の自由」を見た。命がけの自由である。

先日、金沢の美術館をふたつまわった。

中川一美術館のある公園にの中に、銅像があった。
中川さんではない。

盲目の高僧といわれた「暁烏 敏」(あけがらす はや)和尚。真宗東本願寺のお坊さん。

美術館の隣に「千代女」(ちよじょ)の俳句記念館を見た。そこに暁烏敏の書があった。

天衣無縫、まったく作為のない字にしばし足が釘ずけになった。おふたりとも、松任の出身。

はじめてきた地ではあるけど、無駄のない縁を感じた。「まっとう」な人生を歩んだ先人がいる町。

30代終わりか40代のころ、暁烏敏の本を読んだことがある。

また老後に読みたいと思い、実家の本箱にいれたことを思い出した。

能登にもってきた本の中にそれを見つけ、今朝散歩から帰ってきて読んでいる。

そのころはあまりピンとこなかったものが、今は魂の中に染み入る。

60過ぎになって気が付く「魂の若さ」みたいなもんがある。

「お金をもらっても、50代や40代にもどりたい、と思わない」とそんな時に思う。

意固地ではなく、そんなことを最近よく思う。

暁烏 敏の随想抄から

〇苦しいというのですか。それがどうしたというんですか。

苦しいのが面白いんですか。

そんならおめでたいことです。

いやなんですけど苦しいというのですか。

いやならやめたらいいでしょう。どうしたらやむのですか。

やめたければ何時でもやめられます。

どこかよいところがあるから苦しんでおるんです。

私たちは、ほんとうに苦しむ時には、苦しんでおられなくなるもんです。

苦しいというておるのは、まだ苦しみに余裕があるんです。

つまっていないのです。

つまったら、飛びぬきます。

熱いというて湯の中にはいっておる間は、まだ余地があるんです。

ほんとうに熱くなれば飛び出してしまいます。

道ならぬ恋に苦しむ女性に「親鸞でさえ、愛欲名利に迷っておられたのだから、凡夫のわらわれにはなおさらだ。

人が人を愛し、人を思いつめて、気違いになるようになるというのも、人間の美しい姿なのだ」

・・・(注) 彼も僧でありながら、道ならぬ道を歩んだ人だ。矛盾の中に身を投じて、臆せず恋愛にたじろがなかった。

自由は鳥も人間も同じ、命がけである。

〇昔は金を「おあし」というた、またお小遣いというた。

今は金がご主人で、人間が「おあし」で小遣なんだ。

みじめなことだ。あまり金のことを大層に思うてはならん。

〇人間の一生は、色々に苦労しているのも一生であり、苦労しないのも一生である。

苦労した一生が尊いというのでもなく、苦労しない一生が尊いというのでもない。

人生の味は「いまここ」にある。ただそれだけのことである。

どんな時代になっても、「いまここ」に感謝しながら、命がけで生きていく。

それが人生の妙味だ。

感謝・野村拝