「11月11日11時11分から、私もなんか変です(笑)というメールをもらった。「いまここ」がこれまでと違うらしい。
いつものように、朝近くの藤懸神社まで散歩する。
神社の近くの欅(けやき)の梢(こずえ)にジョウビタキが鳴いていた。冬鳥だ。
雀のような小さな体だけど、大陸から海を渡ってやってくる。600kmの道程だ。
「今年もかえってきたよ」と尾っぽを上下に揺らしながら。
冬近い能登に「鳥の自由」を見た。命がけの自由である。
先日、金沢の美術館をふたつまわった。
中川一美術館のある公園にの中に、銅像があった。
中川さんではない。
盲目の高僧といわれた「暁烏 敏」(あけがらす はや)和尚。真宗東本願寺のお坊さん。
美術館の隣に「千代女」(ちよじょ)の俳句記念館を見た。そこに暁烏敏の書があった。
天衣無縫、まったく作為のない字にしばし足が釘ずけになった。おふたりとも、松任の出身。
はじめてきた地ではあるけど、無駄のない縁を感じた。「まっとう」な人生を歩んだ先人がいる町。
30代終わりか40代のころ、暁烏敏の本を読んだことがある。
また老後に読みたいと思い、実家の本箱にいれたことを思い出した。
能登にもってきた本の中にそれを見つけ、今朝散歩から帰ってきて読んでいる。
そのころはあまりピンとこなかったものが、今は魂の中に染み入る。
60過ぎになって気が付く「魂の若さ」みたいなもんがある。
「お金をもらっても、50代や40代にもどりたい、と思わない」とそんな時に思う。
意固地ではなく、そんなことを最近よく思う。
暁烏 敏の随想抄から
〇苦しいというのですか。それがどうしたというんですか。
苦しいのが面白いんですか。
そんならおめでたいことです。
いやなんですけど苦しいというのですか。
いやならやめたらいいでしょう。どうしたらやむのですか。
やめたければ何時でもやめられます。
どこかよいところがあるから苦しんでおるんです。
私たちは、ほんとうに苦しむ時には、苦しんでおられなくなるもんです。
苦しいというておるのは、まだ苦しみに余裕があるんです。
つまっていないのです。
つまったら、飛びぬきます。
熱いというて湯の中にはいっておる間は、まだ余地があるんです。
ほんとうに熱くなれば飛び出してしまいます。
道ならぬ恋に苦しむ女性に「親鸞でさえ、愛欲名利に迷っておられたのだから、凡夫のわらわれにはなおさらだ。
人が人を愛し、人を思いつめて、気違いになるようになるというのも、人間の美しい姿なのだ」
・・・(注) 彼も僧でありながら、道ならぬ道を歩んだ人だ。矛盾の中に身を投じて、臆せず恋愛にたじろがなかった。
自由は鳥も人間も同じ、命がけである。
〇昔は金を「おあし」というた、またお小遣いというた。
今は金がご主人で、人間が「おあし」で小遣なんだ。
みじめなことだ。あまり金のことを大層に思うてはならん。
〇人間の一生は、色々に苦労しているのも一生であり、苦労しないのも一生である。
苦労した一生が尊いというのでもなく、苦労しない一生が尊いというのでもない。
人生の味は「いまここ」にある。ただそれだけのことである。
どんな時代になっても、「いまここ」に感謝しながら、命がけで生きていく。
それが人生の妙味だ。
感謝・野村拝