2020/01/15 (1036) 「昨日、能登の家にきた。・・・」

昨日、能登の家にきた。

ただなんとなく、東京と能登の二か所で暮らしているのではない、ということが、だんだんわかってきた。

若いころのように「目的」をもって生きていない分、「無為」というか自然体で「生かされている」ことを感じ、自然やまわりの縁ある人たちとの「ふれあい」に感謝する気持ちが強くなってきた。

すると不思議な縁が無限大で広がってくる。

これを「無為自然」という?

 

途中富山のサービスエリアで「富山新聞」を読んだ。一面は地元の関脇「朝之山連勝発進」だ。

そしていつものように和倉温泉の総湯につかって、旅の疲れをとる。いつもバロック音楽がBGMで流れていて、ここで静かにお湯につかっていると、自足、というか「何もいらない」気持ちになる。

新宿からも深夜バスがでている(7000円くらい)。

入浴料が440円。

キャバクラやスナック、ヘルスなどにいくお金と暇があれば、いつでも気楽にこれる。

その後、近くのカフェで「北國新聞」を読む。一面は「遠藤、連日の金星」が一面。

東京にいると、「地元贔屓」の意識がうすれる。いまだに地方では地元の力士の一戦一戦に一喜一憂する。

 

「富山新聞」と「北國新聞」・・・その日の一面の下にある、朝日新聞の「天声人語」にあたる「字鐘」というところが、同じことに気づいた。

つまり、同じ系列の新聞社なんやね。

二度読んだので、だいたい頭に入った。

 

こんな内容だ・・

 

「「ビールは初恋に似ている」・・・一敗目のビールのおいしさに比べると、二杯目三杯目の満足度が下がる。

経済学では「限界効用」とうそうだ。確かに初恋は苦い。だが鮮明に記憶されて、甘い思い出になる。二番目・三番目とは比較にならない。

・・・社会と個人の関係も一杯目が難しい。

世の中には学問で説明できることとできないことがある。

これも酒から学んだ。」そのような文やった。

 

反論はしないけど、今から思うと「どれが初恋」・・というくらい遠い昔話で、二番目三番めのほうが思い出深いし、年をとり「老いらくの恋か?」

になる境地の恋も、ビールの抜けたような若いころの恋の味よりも、よっぽど素敵なような気がする。

これも、若いころの心は自分の目的にとらわれすぎているけど、壮老年期の恋は目的から遠ざかって柔らかい。

 

プラトニックで、片道キップのゆるやかな秘め事めいたものが多くなってくが・・

 

昨日の夜は、たこ焼きを酒肴に、角の炭酸割を飲みながら、PCで映画を見た。「I am Sam 」囲炉裏の炭とウィスキーで暖をとりながら映画を観るのも粋なもんだ。

アマゾンプライムなるサービスでO円(Free)で見れた。

その映画で辣腕女弁護士がFreeで、知的障害のある主人公を弁護しながら、「ほんとうの親子の愛」というものを反対に学ばせてもらう・・そんな映画やった。

ユングじゃないけど、人はみな♀(アニマ)と♂(アニムス)の両性具有。

それをお互いにバランスよく調和させながら生きている。

これを「おたがいさま」という。

親子もしかり。

「たこやき&ハイボール」との最高のマッチングとぴったりの映画で、エンディングの時に角も空っぽになった。

これも「色即是空」か? 映画の後半の犬たちのふれあいも素晴らしい。

 

鈴木大拙にこんな言葉がある。

 

野中の一本松が雨にぬれて、しょんぼり立っているのを見て、これに傘でもさしてやれぬかと憐れむ。

二階に寝かしておいた子猫がどうしたものかと気にかかるので、階段の下まで来て耳をすまして、様子を聞きとらんとする母猫の真剣さ...これらがいずれも大悲の本願から出ている。

この本願にしたがうのが道である。

 

さすが・・・・感謝・野村拝