2011/06/21(782) 『震災から100日がたった。・・・ 』

震災から100日がたった。まだまだ復興までのけわしい道のりが続く。

昨日、隣の隣の、正確にいうと、そのまた隣の角の、経師屋のくろさきさんが、頼んでいた書の裏打ちをもってきてくれた。

 
1枚が貞本さん。震災の後に「南無阿弥陀仏」と揮毫したものだ。

 
鎮魂の意味も含め、薄墨で書いた。南無というのは、鏡屋敷の向こう側みたいなものか。気がついたら、阿弥陀になっていた、みたいな意味だろう。

 
もう1枚は、足利紫山老師が、100歳のときに「竹」と書いたもの。坊さんや書家が書いた書には、作為というか、何かにおうものがあって、あまり好きな字が少ないが、老師のものは、いい。

 
人生にも、泣いたり笑ったり、紆余曲折など節々があるけど、そのたびに、大きく成長し、いつも青々しく元気な竹の生き様に、日本人ははげまされてきた。

「古松は般若を談ず」と書いた軸も時々かける。いろいろな節を越し、老獪な世界を生きるようになると、生き方そのものが哲というか、悟りの境地みたいなものになる。

そんな境涯を伝えた言葉。

最近は大分から竹の匠たちがあまたやってきて、竹細工の会も大盛況だ。
来週の日曜日も、5人目の先生がやってくる。ぼうと同郷の福岡生まれらしい。

今朝の朝日新聞の天声人語に、「川上澄生」さんの「初夏の風」が紹介されていた。天真庵のトイレから、下へ下る階段の上に、着物をきた美人の版画がある。説明はしたことないけど、川上澄生さんの作品。

初夏の風

かぜになりたや
はつなつの かぜになりたや
かの人のまえに はだかり
かの人の うしろより吹く
はつなつの はつなつの かぜに なりたや

2007年に押上に天真庵を結んだときから川上さんの着物の美人がそこにある。そして、妙な縁につむがれて、書や、茶や、三味線、かっぽれ、花、お仕覆など、「和の文化の輪」みたいなものが静かにひろがっている。                             

                                            天恩感謝・野村拝