天真庵を作っていた2007年の新春。見たことのない風貌だけど、前世から友だちみたいな顔をした黒い顔の背たかのっぽの人が、ぼくの前に現れた。
「この街にはない洒落たお店ができそうでうれしいよ」と、流暢な日本語で話しかけられたのが、最初の出会いだった。
彼はいつも、緑色の車にのって、天真庵の裏の駐車場からでていった。しばらくして、街の人に、「彼は有名なジャズドラマー」だということ知った。
2008年の正月。初めて「年越し蕎麦&カウントダウンのだらだら忘年会」が終わり、新しい年を迎えたとき、「あけまして、おめでとうございま」と、丁寧な挨拶をされた。その時に、「この街に天真庵を結んでよかった」とこころから思った。
その年の4月1日。つまり天真庵の一周年を、親友のワカ、こと故・吉若徹さんが、お祝いにジャズピアニストの荒武くんを呼んで祝ってくれた。みなが陽気に酩酊して「天真庵にピアノをカンパしよう」と叫んだら、近所の奇特な人が「母が使っていたカイザーというピアノをもらっていただけませんか」という話になり、無駄のない縁で、昭和35年生まれのカイザーが天真庵にやってきた。
その日、セシル・モンローが、うれしそうに「いいピアノがはいったね」と、喜んでくれた。
そして、そのピアノにまたまた無駄のない縁で繋がった音楽家たちが、ぞろぞろやってくるようになった。
その年の7月の墨田川花火大会の日、はじめて「ゆかたライブ」をやった。ミュージシャンのもにじんさん、お客もみな浴衣(もしくは甚平・作務衣)で、下町の夏を楽しむ会が始まった。次の日、モンローさんが、やってきて、「焼酎!のロック」といって、カウンターに座った。「昨日は、浴衣の美人がいっぱいいたね」とのこと。
「ぼくは仕事だったけど、オフだったら参加したしたかったよ」とのこと。
それから、毎年「浴衣ライブ」は、墨田川花火大会の日に、やり続けた。今年は大震災があり、花火大会は8月の27日になった。
震災の直後、「アドマチック天国。に、天真庵もセシルも紹介された。彼とカウンターごしにかわしたジャズ談義は残念ながら放映されなかった。後で、彼の盟友であり、ジャズピアニストの大石学さんに聞いたら、「天真庵のマスターとの話がオンエアーされなかったのが残念だ」といっていたそうだ。まったく同感。
今年の8月20日(土)、「墨田ジャズフェスティバル」の日。インターバルの間に、大石学さんとセシル・モンローが、カウンターに座った。セシルのラップが入っているCDを聴きながら、芋焼酎のロックを飲んだ。そして時間がせまってきたので、うちのかみさんが車で、2人をフェスティバルの錦糸公園までおくった。それがセシルとの最後になった。暖簾をくぐり、出て行くとき、大きな体を丸めて、踵をかえし、「これからも大石さんをよろしく」といって、ウィンクをした。反射的にぼくも下手なウィンクをして、「OK」といい、握手をした。
次の週、隅田川花火大会の日。彼はオフで、息子と千葉の舘山でボディーボードを楽しんでいたが、台風の影響による高波にさらわれて、あの世に旅立っていった。きっとその夜は、浴衣をきて、天真庵にくるはずだったに違いない。
いまだに、彼が召されたことが信じがたくて、駐車場や彼の家の前で立ち止まることがある。いつものように「ハーイ”!」とハイタッチに負けないようなテンションででてきそうで、しかたがない。
死んだワカやモンローさんとは、自分も死んでからでないと会えないのだと思うと、気が遠くなる。でも毎朝、蕎麦を打つときに、モンローさんのCDを聴いたり、ワカの写真を見たりしてると、今でも、こころが通じる気持ちになる。きっと、生きること、死ぬこと、というのは、同じ次元のことではないかとも思う。
つかの間のこの世の旅の途中で、稀有ジャズ好きの親友ふたりに出会えた縁にこころから、感謝。 天恩感謝。
「セシルの押上ブルックリン」 詩・野村南九 路地裏の 陽だまりに 猫がまどろみ 十間橋通りにある 長屋のカフェ 隅田川のほとりから 花火があがり 福神橋のたもとの 小さな神社 ワカも歩いた ジャズが似合う街 |